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マスター浅井の思い出

マスター浅井が亡くなって5年が経ちました。 やっと悲しみから少し立ち直る事ができ、随分前にインタビューした内容を整理することができました、おそくなって申し訳ありません。写真もこれからどんどん足していきます。   (浅井惠子)

陳宏宗主席師範

■2007年1月26日

沢山の武道をやったけど、空手が一番良い。
相撲、柔道(三段)剣道三段、そして、白鶴拳をやって60余年、30代の時、本で空手のことを読んで注目していた。
35才の時、妹がマスター浅井と空手を台湾へ連れてきた。
白鶴拳の師匠、林元龍先生は、マスター浅井の蹴りを見ただけで感動した。そして、武道の中で空手が一番素晴らしい、特に「浅井」の空手が合理的で世界中で歓迎されるだろうとおっしゃった。あれから50年経ってその通りになった。
一番印象に残ったのは、演武をした時、マスター浅井が突いて来なさいと云ったので、その通りにしたら、全然相手にならなかった。それを見ていたのは武術の心得があると、自分で思っている人達だったが、大声で怒鳴り出した、振り返って見ると、怒っていると思ったら、それは驚嘆の声だった。まだ20代後半のマスター浅井に対して「こんな若僧になにができる」と思っていたのだ。
マスター浅井は、本当に格闘技の天才だ、七節鞭の練習を私は10数年やってもまだ完全でないのにマスター浅井は二週間で完璧に身につけたのだ、本当にみんなびっくりしている、
その他のいろいろな武器もすぐに覚えてしまった。
マスター浅井は亡くなっても、未だパソコンのユーチューブで活躍し世界の空手愛好家に空手の技を「示範」しているが、本当に惜しい、あと10年、あと10年活きてくれれば、世界の空手は変わるであろう、浅井空手の事を理解できない人達は浅井空手は難しいというが、難しいから一生懸命練習しなかればならないのだ、練習しないから難しいのである。
本当に惜しい、あと10年活きて欲しかった。
 今は残った弟子達がその教えを一生懸命に実践しなければならない。

マスター浅井に寄り添い細かく通訳する主席師範陳宏宗先生 マスター浅井に寄り添い細かく通訳する主席師範陳宏宗先生 マスター浅井に寄り添い細かく通訳する主席師範陳宏宗先生

マスター浅井に寄り添い細かく通訳する主席師範陳宏宗先生

女子護身術講習会でマスター浅井の技を通訳する

女子護身術講習会でマスター浅井の技を通訳する




技術局長 陳興桂

■2007.1.27 12:00  台湾桃園飛行機場にてインタビュー

6才 1963年に空手を習い始める。
まだ小さかった。
兄と二人、父より教わった。
空手を習ったのは、父、姑母、浅井先生という家族の影響からであるが、接触しているうちに興味を覚えた。
最初は先に白鶴拳を練習していたが、主に手の技が多いが、空手は、攻防の技と共に変化にとんでいて活気があるので空手を学べと父に云われて、空手の道に入った。
 これが私の43年(2011.現47年)の空手人生の始まりであった。
 空手道は変幻自在で技が多く数ある武術の中で空手を学び、教えるうちに、一番感じるのは、自分自身に自信が持てる事である。
故に生徒募集のスローガンは、「身体の健康 心の自信を養う」という事にしている。
浅井先生との長い教えを受けて、技術の上では、「大開眼界」(目が開いた感じだ)
私は、常に浅井先生が寸暇を惜しみ、絶えず自分を鍛え自分を超越する努力をしている姿を見て来た。
親族関係である為、浅井先生の努力の姿を見続けて来た。
 印象深い事は、台湾では雪など降らないが、日本へ行った時、朝早く目を醒ますと巻きわらをたたく音が聞こえ、窓には雪がたたきつけられていた。
その中 浅井先生が巻きわらを突いていたのである。
先生の近くへ寄った時、その中で浅井先生は裸で練習をしていた。雪が浅井先生の身体に降り注いでいた。その体からは湯気が立ち昇っていた。
先生が横浜に住んでいる時、自分が日本へ行って、一緒に朝練習したが、ある日、雨が降ったので、今日は練習しなくても良いと思った。だがやはり雨の中練習は行なわれた。
また最近二、三年前の事、台湾全国合宿練習会の時、自分が運転していた車が、少し小さかったので、きっと窮屈だったのか、鏡の中でみると、後座にいた先生が脚を車の天井にくっつけてずっと脚の筋を伸ばし、長い時間のあと別の脚を伸ばしたまま、天井にくっつけていた、普通から致今距離で相手に蹴りを入れる先生を見て来たが本当に先生は身体が柔らかく、それはこのように車の中でも身体を整えているからだと感じた。
自分の車が小さくて済まないと思った。
前にも、私の車に乗ったとき「車が小さくて済みません」と謝った時「いや、目的地に着ければ、それで良い、わしは大くて立派な車は多く乗せて貰っているが、わしはその車には乗りたくない、君の車に乗るのが好きだ」といってくれた、その時絶対大きな車を買って先生が、台湾へ来たときはその車に乗って貰うのだと誓った。
今車を買ったのに、先生はもう僕から離れてしまった(涙)
今、この車を運転していると、時々先生が後に座っている様な気がする。
浅井先生がいなくなって、先生が残した新しい技を一生懸命練習して「後世」に伝える事に努力する。
日本で昇段審査を受けた時、直径1m半の円を描き、その中に入って三人の指導員の攻撃を受けた。
(外国人は壁に跳ね飛ばされた)
「お前がこの円の中から出たら、三人一緒に攻撃する」と審査員に云われた。
後に審査する人達は、全員逃げた。


マスター浅井とはじめて会った2歳の頃 浅井哲彦 asaitetsuhiko
マスター浅井とはじめて会った2歳の頃。 初めて浅井先生から空手を習った時(6歳)



■2007年9月25日 インタビュー 台湾台北総本部道場にて

浅井先生は何十年もの間、続けて毎朝早く雨の日も練習していました。 私が日本へ行った時も朝雪がふっているのにマキワラの音が聞こえたので起きて見ると浅井先生がマキワラをついていました。それが忘れられないです。




城所俊行さんコメント

■2007年1月

20才の得意型昇段審査の時、真ん中にいた審査長の浅井先生は時々自分の顔を見るが、大体は視線を落として、脚だけ見ていた。途中から視線を上げた事をはっきり印象に残った、僕達のレベルでは浅井先生にお会いできるのは、年に一、二回の大会の時、一番最後の決勝戦の時に出られて、その審判ぶりを見ることができるだけである。
後に先生に、脚だけ見て審査するのは、何故かと尋ねたら、その脚を見ただけで、その人のレベルが分かるのだとおっしゃっていた。
その時は丁度、脚の技を研究していた時だったそうだ。
又、その頃の先生方は、それぞれ審判のスタイルがあった。多くの人は浅井先生の独特のスタイルを真似する人がいた。最近、二、三年前後に先生が説明してくれた事は、先生は手の掌を上に向けて点数をとるのは、その人の一生懸命に試合において得た点数に敬意を表して差し上げるという気持ちでの形であって、ただの動作のくせではないという事を聞いてとても印象に残っている。
その手の掌を上に向けるのと、下に向けるのでは、意味が違う事だから審判の時は、手の掌を上に向けるものだよと、丁寧に優しく説明してくれた。
浅井先生の実際の空手の技について、僕が、本部道場に練習に通っていた時、何人かの、先生方が云っていた事だが、お前は信じないかも知れないが浅井先生の技はどんなにすごいかというと相手の蹴りの脚の下を潜る事と、相手の蹴りの膝の上に乗っかったりする事だ、鞭拳など知らない技なんか効き目があるのかなと思ったが、その先生達はそれで板の三枚や四枚は、軽く割るのだと云っていた。
浅井先生の一挙一動はすべて伝説となる。

陳先生は、何時もあと10年、あと10年、生きてくれたら日本や世界の空手は変わるだろうと、いっている。
浅井先生の空手は、関節を利用した技というが確かにそれもあるが、僕は浅井先生が台湾へ指導にいらっしゃる毎に、直接向き合って教えてくれた時は、
あの組手のスーっと入って来る所がすごい技だと最近分かった、あの微妙なタイミングは不可能な技である。その微妙なタイミングの技から更にいろんな技にひろがる。
浅井先生は絶対退ることは考えてないからだと僕は思う。
浅井先生の空手の技を最も理解しているのは、陳宏宗先生だと思う。
だから此れから陳先生に一生懸命習って、少しでも浅井先生の技に近づくのが、僕の空手の道です。
浅井先生が飛行機の中でも練習するのには、参ったと空手の先輩がいっていた。

マスター浅井と上海技術講習会にて

マスター浅井と上海技術講習会にて


■2007年9月25日

日本で大学時代からやっています。計算すると28年(2011年現在32年)になります。br> 昔からやっている空手とは違う空手、経験できなかった空手を経験させて頂いた事です。




林茂椿さん

■2007.1月

1980年に「空手道同門兄弟会」の入室弟子、
春,夏,秋,冬(四季)忠,孝,仁,愛,信,義,和,平(八徳)の12名が集まった時、1人の兄弟が時間が経っても来ないので他の兄弟達からは、不満や遅刻を責める声が次々と上がった。
浅井先生は、「義兄弟は、肉親の兄弟より固く結ばれている筈だ、君達は兄弟が中々来ないのをなにかあったかと心配もせずにただ怨みごとばかり云っている。
それでは、義兄弟の義は存在しないではないか」とおっしゃいました。
此の言葉はずっと私の心に残っていました。
後に、その兄弟は、やはり経済上の問題があった事が解り,兄弟達で解決しました。
それから中国武術界のランクでは、
「入門」とは、初級者が入門することであり、3年から五年後に
「登堂」師匠の堂内に入って練習する事が許される。
それから十年以上経って、
「入室」師匠の室内に入り直伝を受ける事ができる。
そして免許皆伝を得る事となる。
30年から一生の間。

■2007年9月25日 台湾台北総本部道場にて

浅井先生に対して強い印象があるのは、
ある日浅井先生に、演武の時、何故「日本刀捕り」を やらないのですか?とたずねたら先生は、
それをやったら剣道の先生達に,特に外国で苦労して剣道を教えている先生に対して失礼だからとおっしゃいました。
それこそが武徳の最高表現です。



林茂椿さんと故マスター浅井


蘇志成さん

■2007.01. 台湾台北総本部道場にて

空手道は私の人生です。
1969年 空手道の練習に参加した第一クラスが、浅井先生の指導でした。教室の中には生徒達がいっぱいで手を伸ばす事もできない状況でした。
数年後、空手道の特技を持っている為にある工場の安全室主任として職につき、そこに現在の妻との出会いがありました。
1979年、その工場を離れ空手道館を開設し専業の空手道教練となり、現在に至ります。
空手の練習をする事に対し、浅井先生は、私に重大な啓示を与えてくれました。
「空手を練習するには、着実に問断なく努力し、鍛練する事である。
そして、技に対して心を込めて思考する必要がある」と、
それは、空手の練習だけでなく、人間として、物事に対して、全てに通じる事であり、此の観念は、私の空手道及び人生の道程に於いて今日まで変わりなく、支えてくれ、私の人生に影響しました。
毎回浅井先生を偲ぶ時、一つ一つの思い出が忘れられません。
私の一生は空手道のみです。終始一貫として変わりません。
浅井先生の空手道の技術及び風格は、観ることはできても絶対に真似はできません。それは、先生の空手道は芸術の境界に入っているからです。
浅井先生は、常に深山に入り、修練したいと願っていました。
しかし、各国を廻り空手道の教練に励んでいる為、時間的に実現できませんでした。
私は、2001年より 今年で6年間(2011.現、10年間)先生の代わりに深山に入り、浅井先生の「気式空手道」を伝承して1日6時間の鍛練をしています。
今、先生を懐かしむだけでなく、先生の遺志を継いで空手をひたすら歩む必要があります。

■2007年9月25日 台湾台北総本部道場にて

浅井先生は、空手を先生の命としていることです。
そして空手道に関して、一生研究し続けてきました。
中国武術を研究し、空手に取り入れ、又、空手を中国武術へと持ち帰りました。
それ故絶え間なく上昇し、その練習、又、練習という絶え間ない上昇により、後に浅井空手を成就させました。
そしてその絶えなき練習と上昇を、自分の修業とし、一生をかけて熱愛し続けてきました。
故に、その様な高い境界に達することが出来たのです。
私達は弟子としてだけでなく、先生を超える様に努力し、練習又練習に励まなくてはなりません。私は1969年から、39年(2011、現42年)空手をやっています。
息子は6歳から始めて、23年(2011、現27年)になります。




汪儒郁さん

■2007年9月25日 台湾台北総本部道場にて

私は20年(2011、現24年)空手をやっています。国内の五段と国際三段(2011年、現 国際五段)を持っています。




周智文さん

■2007年9月25日 台湾台北総本部道場にて

私は24年(2011、現28年)空手をやっています。




Mr.Bruno Koller(ブルーノ・コーラさん)

■2006年11月ブルーノ・コーラさんより

「押忍」

「押忍」それは教師と生徒を結ぶ懇切な決まりであり、義務と責任から成り立っている。
そして、それを通して教師と生徒、両者が深く関わり合うのである。
「押忍」は空手家にとって関わざる得ない言葉であり、パイオニア精神に溢れていた。
この場を借りて今まで私に空手を教授して下さった先生方に感謝の意を表します。

・佐藤Yuji

先生のもとでの二年間のトレーニングは日本一高い富士山より高く評価されました。

・Shoji Hiroshi

佐藤先生を通してShoji先生と知り合いました。彼は私をいつも「変な外人」と呼んでいました。

・浅井哲彦

私にとって浅井先生と一緒に仕事をし、そして彼の伝統的空手を指導していただいた
ことはたいへんな財産でした。彼の空手の型は多技に渡り、万人に向いています。浅井先生は私には忘れられない天才の恩師です。
浅井先生はスイスにいらした折、一度このように言っておられました。「僕はブラジルで600kgのステーキを食べたんだよ。」私はこう先生におっしゃいました。
「それは牛一頭丸ごとですね。」
しかし私たち皆は先生が600gのステーキを食べたことを知っていましたし、私たちを笑わそうと冗談をおっしゃってたのも分かっていました。

スキーのインストラクターだった頃、空手を習い始めた。
スキーのインストラクターだった頃、空手を習い始めた。




■2007年9月25日 スイスより、台湾台北総本部道場に練習に来ていたときのインタビュー

私は始めて台湾に来て、とても良かったです。
浅井先生の空手を練習できて、とても嬉しいです。
みなさんとてもいい人ばかりで、ベリーナイスです。
陳先生にテクニックを教わる事もできたし又台湾に来たいです。
本当にみなさん良い人ばかりでベリーナイスです。




Mr.Edward R.Fujiwara(ハワイのエドワード藤原さん)

■2007年6月1日 ハワイ マスター浅井メモリアルキャンプにて

私は神様のお陰で、21歳、大学生の時、浅井先生に会いました。一番最初に先生に会ったのは、空手の道場でした。私は一生懸命練習し、稽古が終って休んでいると、浅井先生が私のところへ歩みよって、自己紹介をし、次からはそんなに頑張ってやらないで気楽にやりなさい、と言われました。それが先生との出会いです。私は今62歳ですが、42年間(2011年現46年)空手を続けています。私の心に浅井先生は何時でもいらっしゃいます。思い出はいっぱいありますが、私が糖尿病にかかって、病気だから空手の練習はできないと何回も言ったのに、全然聞き入れてくれないので、とうとう腹が立って「今からこの薬を捨てて空手の練習をするけど、もし私に何かあったら死ぬかもしれないけど、そのときはあなたのせいだからね」と言って、腹をたてながら、辛い稽古を続けました。そうしたら、私の糖尿病と高血圧がなくなっていました。先生は私にとても優しくしてくれました。浅井先生はグチを言わず、この40数年の間、たくさんのことを教えてくれました。若い時はあまり理解できなかったのですが、今になって、解りました。いろいろ先生の教えを思い出して、空手を続けています。私にとって神様は一番大事です。その神様に私は毎日、私の家族と浅井先生のことと、奥さんや家族のことを守ってくださる様にお祈りしています。

■トークからの抜粋を紹介します

藤原さんは42年の間、私達がどこの国にいても、毎年6月7日マスター浅井の誕生日と、クリスマス、そしてお正月には必ずハワイからお祝いのお電話をくださいました。マスター浅井が亡くなった今もです。彼の家にはマスター浅井の遺品がいろいろと、最後に吸ったタバコの吸殻まで、ガラスのケースに入れて陳列され、浅井哲彦ミニ記念館さながらです。

マスター浅井に会った頃,21才大学1年生 浅井先生とのツーショット 浅井先生の得意技
マスター浅井に会った頃
21才大学1年生
浅井先生とのツーショット 浅井先生の得意技

左から浅井星美、フジワラさん、Mr.陳興桂 マスター浅井とフジワラさん 藤原さんとMr.Mrs浅井
左から浅井星美、フジワラさん、Mr.陳興桂
マスター浅井とフジワラさん 藤原さんとMr.Mrs浅井




Mr.Keneth Funakoshi(ケネツ フナコシさん)

■2007年7月 ロスアンジェルスにてインタビュー

私が空手を習ったのは22歳の時、その時はハワイの空軍に勤めていました。
浅井先生は、1965年にハワイへ来ました。
ハワイを離れる時に、私をハワイ空手協会のチーフインストラクターに指名しました。
浅井先生と私はとても親しいです。先生はハワイに五年もいましたので、私は先生のもとで毎晩空手のトレーニングをしました。
一緒にジャパンティハウスや、空手大会で多くの空手デモンストレーションをしました。
その為に毎日の空手トレーニングの終わった後に、沢山練習をしました。
私は、空手の大会でグランドチャンピオンになりました。型の優勝5年、組手優勝3年、2位を2年間保持しました。
そして私達は、浅井先生から空手のスピリットを習いました。
1984年に日本の先生の家に2週間滞在しました。ホテルに行くつもりでしたが、奥さんが家においでとすすめてくれました。
毎朝6時に先生とトレーニングをし、奥さんが朝食を作ってくれました。
その後に毎日本部道場へ指導員稽古のトレーニングに行き家へ帰ると、奥さんが夕食を作ってくれました。
奥さんは毎日朝食と夕食を作ってくれました。その事を私はよく覚えています。
私は先生の家に滞在した事をとても誇りに思っています。
とても良い時間を過ごすことができました。
 私は先生の良い思いでばかりです。
先ず先生は空手の組手や型のマスター、チャンピオンだけでなく一番大事な人間性がとても素晴らしいです。 私は良い人間性になる事に関して沢山教わりました。
私が今生徒達に教えているのは、人格完成に努める事などを含め浅井先生から教わった事を教えています。
空手のテクニックだけでなく、良い人間性になる事です。
人々は、型や組手のチャンピオンばかりを欲しがり、それは空手の一部だけだと気がついていません。
 浅井先生は空手のテクニックと素晴らしい人間性の両方を兼ね備えています。
私は浅井先生のもとで五年間も教わることができたのをとても幸運だと思います。
浅井先生は何時も人々に、私は弟だと云っています。
私はそれを誇りに思っています。
私の成功は浅井先生のもとで練習した事と、先生からいろいろ教わった事と、先生から人間性を高めるばかりか空手の高級テクニックを教わった事です。
私達は先生をとてもユニークだと感じています。
とても他の人には教えられない空手の高級テクニックを持っていることです。
誰もが浅井先生の話をすると、先生のそのスピードの速さと空手の高い技術の噂ばかりです


私は空手の先生になるつもりはなかったのですが私の空手大会の成績もあって、その後浅井先生が日本へ帰られる時、私をハワイ空手協会のチーフインストラクターに任命したので
私は、空軍の仕事をやめて、フルタイムの空手インストラクターになりました。そして空手を教える事に専念し、空手の普及に努めました。
私の弟子達がシアトル、ワシントン、カリフォルニアなどに引っ越して、私を招いて、空手のセミナーを開いたり審査をしたり、
また別の人が私をポーランド、イギリス、ロシアなどへ招いたりして、段々私の組織が大きくなり毎年空手大会を開く様になりました。
今までラスベガスで5回、今年はイギリスで、次は南アフリカで開催することになっています。
私は浅井先生の良い思い出が沢山あります。私は沢山の先生のストーリーがあり、良く私の弟子たちに私の浅井先生の話をします。
ジャパニーズティーハウスで空手のエキジビションをした時、浅井先生がフローアからキックをする事になっていたのですが、相手が攻撃した時、ただ先生の脚が何かしているとだけしか見えませんでした。あまりに早すぎたので理解できなかったのです。
エキジビションの後、先生にどうしたのですかと聞いたら、浅井先生が一度目のキックを失敗したので二度目のキックを出したのだとおっしゃったので、そうだったのかと、初めて解りました。
先生の蹴りがあまりにも早かったので私達には何が何だか解りませんでした。

それから別のエキシビションの時、出番を待っている浅井先生がアグラをかいて座り、 人と話をしている時、私が後から先生の肩を掴んで、「先生、どうしますか?あなたは、もう動けませんよ、私が後からアタックしましたけど。」と言ったら、
先生はいきなり前から後ろにいる私の顔を蹴ったのです。
そんな事、誰にも出来ませんよ。誰かが後から襲った時、アグラをかいているのに、前から後の人の顔を蹴るなんて。
それを先生がやったのです。沢山の事を先生はやってのけました。

私達は先生のいろんな事をやってのけるストーリーが沢山あります。
先生に会う前の1962年頃、金澤先生はよく浅井先生の話をしました。
日本に一人、動きの早い人がいるんだ。組手をやっている時、突然消えて、何時の間にか後に廻ってパンチをだすんだと。後に浅井先生に会った時、その話をしました。

浅井先生は試合の時に相手が前蹴りをしてきたら、その前蹴りの下をかいくぐって、後に廻り、その背にパンチを出すんだと。中山先生が審判をなさっていて、何が起こったか解らなかったけど、そのパンチに「一本」のテクニック判定をくだしたので、試合に勝ったそうです。

勿論浅井先生のストーリーは沢山あります。空中に飛び上がって空間ですごい横蹴りをするなど、沢山の写真があります。
先生の様な才能のある方に5年間も教えて頂いて本当に幸せです。
沢山の松涛館空手を習っている人は、みんな浅井先生の過去のチャンピオンの事や、テクニックのストーリーを聞きたがっています。
私が弟子達に教える時、何時も先生の素晴らしいテクニックの事を話しています。
デモンストレーションだけでなく、空手大会に於いても完璧ですと。



Mr.Keneth Funakoshi(ケネツ フナコシさん) 経歴

  • 1948年 10才の時柔道を習う
  • 1954年 16才、高校の時、フットボールの選手となる
  • 1956年 18才、拳法を習う
  • 1959年 21才、US空軍に入り、拳法を教える(写真1)
  • 1960年 22才、拳法を教える(写真2)
  • 1964年〜1968年、ハワイ空手協会の空手大会に於いてグランドチャンピオンとなる(写真3)
  • 1969年 浅井先生よりハワイ空手協会の指導員に指命された
  • 2007年 イタリーの空手マガジンのカバーに載った。(写真4)
  • 現在、船越松涛館空手協会 CaliforniaUSAにて主席師範を務めている。
1959年 21才、US空軍に入り、拳法を教える

(写真1)

1960年 22才、拳法を教える

(写真2)

1964年〜1968年、ハワイ空手協会の空手大会に於いてグランドチャンピオンとなる

(写真3)

2007年 イタリーの空手マガジンのカバーに載った。

(写真4)

ハワイにて

ハワイにて

ハワイにて

ハワイにて



Charles Lee (チャールス・リーさん)

■2007年6月3日 ハワイ マスター浅井メモリアルキャンプにて

私は19歳、大学生の時に空手を習いましたが、仕事の為に一時中断しました。1983年に息子が生まれた時に空手に戻り、その時に浅井先生に会いました。 息子が私にそうさせたのだと思います。
あれから25年です。
思い出は、毎朝5時に起きて先生と稽古したことです。浅井先生は自分の稽古が終わったのに、私達に1時間半位の時間を下さいました。空手の形や組手など教えてくれました。以前は私の空手は普通でしたが、先生に教わってから、私の空手はとても進歩しました。浅井先生から多くの事を教わりました。不幸にして先生は亡くなりました。次の世代は先生の事を知らないし、会えないので、私はいつも私の弟子たちに先生の事を話していきます。
浅井先生から多くのことを学びましたが、一番勉強になったのはリラクゼーションです。私は先生を見つめ、見習いました。沢山の事を得ました。
私の弟子たちにバックしています。
先生のパーソナリティは、いつも与えてばかりです。一生懸命教えてくれました。それは私がもっとも浅井先生をなつかしく思うところです。
ですから、できるだけ先生のもとで稽古したいので、先生をハワイへ招待して稽古をつけて頂いたり、2000年にハンガリー、2002年にスイスのサマーキャンプにも稽古に出かけました。2003年にニュージーランドに大きい道場を建てることができて良かったと思います。大きな道場を建てて、浅井先生にそこで空手を教えていただき、ニュージーランドに浅井先生の空手を紹介する事が私の夢でした。それが叶えられて、とても良かったです。

チャールス・リーさん、浅井ファミリーと一緒の写真 リーさんとマスター浅井




佐藤達美さん、勝野次郎さん、三浦ひろみさん、浅井惠子対談

■2007年10月7日 千葉県我孫子市にて

ミスター佐藤: 先生とブラジルへ行った時、佐藤お前ボディローションをつけるとか、先生の肌すべすべしていますねぇとか、先生、背中流しましょうかとお風呂に入っ     たりすると、お前はまだ若いから今のうちにボディローションをつけろと、だから今ボディローションをつけていますよ。
今お店で3,700円のつけてるんですよ。ほらすべすべしているでしょう。
これもみんな先生の御指導なんです。
先生の話しを常にね、しているんですよ。楽しい人生でしたよ。
先生と一緒におふろに入ってね、流してね、先生なんでこんなに良い肌してるんですか、とかね、いろんな思い出がありますよ。本当にありますよ。 長いですからね。
ミスター勝野: 朝ホテルで食事をしていると、パンとかフルーツとか先生は、パクパク食べて皿が汚れると必ず全部わたしのところへよこすんですよ。
自分は新しい皿をとって私の前は汚れた皿がいっぱいになって、さも私が食べたみたいで、実は自分が食べたのにどんどんそれをやるんですよ。
ミスター三浦: 肉を食べている時も美味しくないのはとっととこっちへやって、自分は美味しいところだけ食べて、食べカスはみんなこっちへ――― あれはすごかったですね―――
ミスター佐藤: あれは楽しくやってんですね。 そうですよ。「おい勝野お前みんな食べただろ」、というと 勝野君は真面目だから、先生違いますよと皿を戻そうとする。 「まあ、いいじゃないか」と(笑い) 本当に食事はすごかったですね、本当にあの身体のどこにはいるんですかね。 わたしみたいにお腹が出てないしね、スラーっとしてたし
ミセス浅井 : 贅肉はいっさいないですね。
ミスター三浦: あれだけ食べてね。
ミセス浅井 : 人にカスをあげるのはまだ良いですよ。私なんか、人の前で「お前よく食うなぁー、わしはいっちょうも食べられない」
一同 : そうそう
ミセス浅井 : いわれましたか?
一同 : いわれました。
ミスター佐藤: 良い先生でしたよ。空手は厳しかったけどなぁ。
一同 : 空手はな――
ミスター勝野: 大会の前に講習会があって、生徒がいっぱいいて、たまたま私がよばれて、技を見せるシーンがあり、お前下段払いし0て突いてこいという話になって、先生と一緒にやるのはめったにない事だからと緊張して、ハイ行きますとポンポン突いて行ったら、「もう、もういいもう止めていい、私がお前の突いてきた技に出したら腕が折れちゃう。もうお前は無理だからやめるやめる」 だってこっちは先生と一緒にやるんだから力が入りますよね。 だめだ私が技かけたら手が折れちゃうからもうやめよう、それだけですよ。全然キツネにつままれたみたいですよね。
ミスター三浦: 本当に速いですよね、ビシッと、あれじゃすぐ折れちゃいますよね。 あれはムチですよ。
三浦: 腕を返す早さがものすごいですよ。ビシッとやられたら一発で折れちゃいますよね。
佐藤 : あれはムチ、ムチですよ。
勝田 : 本当に考えられないですよね
三浦 : 先生のまねをできる人はいないよ、今でもそれを話して(弟子達の) 教育の材料にしていますよ。 あの目でグッとにらまれたらゾクッとしますね、 こっちがやられたら身動きがとれなくなっちゃう。 本当にすばらしいですよね、今でもずっとねらわれた時の事が頭に 入っています。あの目だなと思っています。やっぱり凄いですね。 あの目はするどいです。




Mr. Vincenzo Serao

■2011年9月

Dears Mrs KEIKO ASAI, J have to thank you for the kindness of your compliments towards us. You can use the letter and the pictures as you want. For us, it is a privilege to find space on your website IJKA ASAI!
Warm greetings


Vincenzo Serao
Hayabusakan Napoli
ITALIA


Dear Mrs Keiko Asai, it has been a huge pleasure to hear that my letter has been much liked by you and this fills with joy both j and all my friends. For us everybody it was a duty to show our gratefullness for all that Asai Sensei has given us with his teaching and we will keep on trasmetting with enthusiasm and all our strenghts. J hope heartily to be able to meet it possible to show as soon as possible from neighbour all my estimate and that of my friends than with me spent memorable moments with our darling Asai Sensei Shuseki Shihan. With estimate best regards


Vincenzo Serao
P.S. Even J pretty good writing English! J am sending some pictures for me recognize.


Naples, September 10 th 2011
Dear Mrs. KEIKO ASAI
it is a great honour for me and all of my friends from Naples to write this letter, hoping it has a meaning for you. My name is Vincenzo Serao, I live in Italy, in Naples and great has been the privilege to learn the teachings of our beloved Asai Sensei, Shuseki Shihan for several years, since 1993.
In 1988 we had decided to come to Japan, to Tokyo, near the Hombu Dojo to personally meet Asai Sensei, at that time become the leader of the old JKA after Nakayama Sensei’s death. His fame was already great and I perceived that in Him there was something different, special and that, despite what the others did, he went over the conventional limits. He was really Unique! I couldn’t manage to get to Japan, but two dear friends of mine reached Tokyo in February 1988. They were welcomed by Asai Sensei with great hospitality and for 40 days they stayed in the Hombu Dojo, becoming more and more confidential friends with Him. When they came back, they gave me as a gift a book with dedication signed by Asai Shihan that I jealously preserve together with so many other things I had from Him in all these years and most of all the DOJO KUN, personally written by Him.
Two years passed and to our great and glad surprise, we directly received from Asai the invitation to participate in the World Championship in Dubai, in the Arabic Emirates. For us it was above all the occasion of a wonderful adventure we would never dream could come true, and what’s more for free! In that occasion I finally had the honor to personally meet our beloved Sensei and everything I had thought about Him exceeded anything I had previously imagined.
Subsequently, after a few years and precisely for the first time for us in 1993, thanks to the dear and good Bruno Koller, who is really worthy, first of all for have given us the possibility to meet Asai Shuseki Shihan in the near Switzerland, all of us have had the fortune to be able to profit some teachings of the Teacher, the qual thing is repeated for many years up to the fatal event. I have to say that every time that we met there it was a great surprise; in fact, as soon as it perceived one of our group it drew near and with the finger it pointed out how much we were and every time that one of us presented Asai Sensei it smiled happy the hand bringing himself to the forehead. It was his way to give us a pleasant welcome. I still remember when in 2004, during a seminar in Switzerland, we went to do it visits him in his room in the hotel three dear friends of mine and I where Asai Sensei, together with a Japanese student that had just come from England, he was waiting us. Brought him a gift for her Mrs. Keiko Asai and him in joky tone said that the gifts had to do only them to Him, then started laughing!
In that occasion we spoke of as things, among which the great project that had in mind for his organization and of the great championship of the world that intended to realize in Taiwan. Then he asked us if we went to make shopping together with Him, because it had to purchase some gifts for his wife and I can say only that in that occasion we bathed there as fishes so it rained. In Switzerland it always rains, especially in summer! Who knows because? However been worth to go out with the our dear Sensei. What an honour for us!
Sees Mrs. Asai, I could write so many things but that to which I hold a lot to make to know to you and who will read this letter it is that we of the Neapolitan group, that has followed for so many years Asai Sensei, have independently done him with discretion and humility to be tied up or less to any organization or for anybody else interest. I confirm that what pushed us to follow the affectionate bond it was him and of great trust and respect in his dowries is technical, to which nobody can ever draw near and not even to imitate, but above all his humanity and the relationship that he knew how to establish with whoever it respected him. Asai Sensei has never asked us to what organization we belonged neither what pits our degree. I know only that during his seminars, at the end of the daily lesson, it was usual to hold a private lesson for little people and He always wanted that us Neapolitan we were present and you participate in his lessons. We in Naples am not many the true apprentices of the martial art, since the sporting Karate has had some the upper hand, as after all in Italy, but I can assure that we of our group will always follow the teachings traced by our Shuseki Shihan Asai Sensei and for the whole life we will keep on practising and to divulge the ASAI-RYU. I Wish its Organization and you, the IJKA ASAI a marvellous future that can spread all over the world really, as it was the desire of the dear Asai.
Hoping to meet you as soon as possible, sincerely yours


Vincenzo Serao
HAYABUSAKAN NAPOLI
ITALY

ラジオ番組「ああ我が人生空手道」

Also, we are going to start a new radio program hosted by I.J.K.A.. The show is called “My Life: Karate Journey,” and it will introduce not only Tetsuhiko Asai’s karate life, but also those people who shared a karate life with him. Currently we are looking for more materials to make the show more realistic and robust. If you have:

- Your personal experiences about Tetsuhiko Asai
- Anything related to Asai Sensei’s karate (advice, thoughts, actual lessons etc.)
- Videos and photos

We will air the stories on our radio show, with a mention of your karate-dojo and/or your name. This is to commemorate and celebrate Asai Shihan and his love for karate, so the karate styles or organizations do not matter. Tetsuhiko Asai’s biography movie about his karate filled life is in the production plan. The making of this radio show will be an important part of this movie.

If you have any questions please contact us at info@ijka.jp. Thank you again for your support and understanding. I look forward to hearing from you very soon.

第12回(2010.5.3)
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第11回(2010.4.19) コメント:K.FUNAKOSHI
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第10回(2010.4.12) コメント:K.FUNAKOSHI
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第9回(2010.4.5) コメント:汪儒郁、周智文、BLUNO KALLER、城所俊行、陳興桂
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第8回(2010.3.8) コメント:林茂椿、蘇志成
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第7回(2010.2.8) コメント:陳宏宗
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第6回(2009.12.14) コメント:横田耕作
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第5回(2009.11.30) コメント:横田耕作
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第4回(2009.11.16) コメント:横田耕作
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第3回(2009.11.2) コメント:ウォルター・チハラ
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第2回(2009.10.19) コメント:チャーリース・リー
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第1回(2009.10.5) コメント:エドワード・フジワラ
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